昭和五十三年7月二十四日朝の御理解
御理解第六十八節
神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかに有難そうに心行やお祓をあげても心に真が無ければ神に嘘を言うも同然じゃ。拍手も無理に大きな音をさせるにはおよばぬ、小さい音でも神には聞こえる、拝むにも、大声をしたり節を付けたりせんでも人に物を云う通りに拝め。
神に嘘を言うも同然じゃと。真が無かったらそういう意味合いで、今合楽で言っておる大祓信行は、神様が真で受けて下さるはずだと思うですね。無条件ですから。お陰頂きたいからと云うのじゃないですからね。大祓信行は無条件んだ。神様がままになられる為の云うならば神様に云うならお食事を差しあげるようなもんだ。
だからお道の信心者としてもう当然の事だと。自分がままになる前に先ず神様が先にままになって頂きたいと云う真心。云うならばもう至誠である、誠の至りである。無条件。無条件程すばらしい真はないと私しは思う、ね。
天の心、美しい心、うるわしい心。もうこの一語に尽きると思うですけれども、ね。無条件に恵み、無条件に与える。与えてやまない天の心。その天の心に通ずるんです、ね。
そう云う意味合いで、一つ大祓信行の徹底をいよいよ頂かして頂かねばなりません。所が私くし共の場合には様々な悩みを持っておりますから難儀があります。雨が降るからえらいと思うてはならん。風が吹からえらいと思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと、ね。だからその雨風そのものがです、云うならお徳を受ける対象、辛抱でなからなければいけないと云う事です。
世間にはもう、本当に感心する様に辛抱強い人があります。ならその辛抱強い人が皆お徳を受けると云う事ではないです。だから折角辛抱さしてもらうなら本当な事が分り、又は、神様の御教えを頂いての辛抱。
三代金光様が、十三歳のお年から、八十三才でありましたかね、七十年間という間をお結界奉仕下さった。もう又、人の世にあろうと思えないような御修行であったと思うんですけれども。
その御修行が、ね。思う事も無くなり欲しい物も無くなり、ただ有難うて有難うて、ね。お礼ばかり申し上げて居ります。そのお礼の足らんお詫びばかりを致して居ります。という様な金光様の御述懐のお言葉が御座います。
ならそう云う思う事も無くなり。欲しい物も無くなりもう我情も無くなり我欲も無くなりもうただ有難うて、有難うてというお心が開け暮れた。
その向こうには、どういう事かと云うと、親様が座っておれば楽じゃと仰せられたからという事。
私しはそこだと思うです、ね。ただ云うならば、我力の辛抱とは違う、ね。
「親様が座って居れば楽じゃ、と仰せられたから泣く泣く辛抱しいしいにしておりましたら、思う事も無くなり欲しいものも無くなる」と、おっしゃった、ね。ただの辛抱じゃないでしょうが。
親様が座っておれば楽じゃと仰せられたけれども、なかなか楽ではなかった。それでも親様の仰せだからと思うて泣く泣く辛抱したと。いかにもこう我力のようですけれども、芯が通っている親様の仰せだからというそこん所がすばらしい。
私くし共にはそういう所があるんです。親先生がああ云われるからと例えば、辛抱出来ない所を辛抱する、ね。そう云う辛抱で無ければ私しはお徳には繋がってこないと思う、折角辛抱さしてもらうならば、ね。親先生がああ云うてだから辛抱する、ね。
そこからお徳に繋がる辛抱と云う、ね。もうそれこそ身に徳をつける修行じゃからと云う事になるのです、ね。
昨日、親子五人の家族をあげてお参りされた、娘さんが、子供さんが一人出来て、まあ出て来とんなさる。それで話を聞けば聞く程、もうやるまい返すまいという事に話が決まって思うて、その時に合楽の話を聞かれた。それでま、昨日のお参りという事になったんです。
なかなか、十七年間も生長の家をお父さんがされたと云うのですから、云うなら分りが早い。けれどもね、世の中にはこの私くし共の上に天地の働きと云うものを、私くし共が感得して、天地の心を心として行く生き方を、みやすう楽しゅう説いておるのが合楽なんですけれども、まあそれを、合楽理念とも云うわけですけれど。
合楽理念をもって、それを今の話を聞くと、ね。神様がいよいよ円うせずにはおかんという働きがその問題なんですよと。
どっちの話を云うなら出るの出らんのと云う時にゃ決して片一方だけじゃない、ね。片一方のを聞きゃ相手の方は惨々、片一方の方を聞きゃ相手が惨々。それが普通なんだ。
けれども神様は、云うならば円うせずにはおかんという働きが、いっぺんこう濁ったものはこう混ぜくってみたらこう濁ってきた。そこでその濁ったものを捨てて、新たに生き方を身につけて行こうと云う、そういう働きが始まったんですよと。いや始まっておるんですよ。
だからこれで別れるなら別れても良いけれども、ならこの子が、たとえば一生の事を思うたら不憫でたまらん。神様があん時ああいうすばらしい働き、円うせずにはおかんという働きを受けておるにもかかわらず、それが知らん事とは云いながら離別になった。
子供は、とうとう本当の親は分らんなりにしもうた、というような結果に成ったんでは、こんなに言わばばからしい。又神様に対しては相いすまん、働きを働きと知らんという事は残念な事ですよ。という意味がよう分る感じがする。
帰る時も、本当にここに、私くし共の運命が今日を境に変ってくるだろう、という意味の事を云うて帰られました、ね。
だから本当な事が分ると云う事。神様がお陰を下さろうとする働きなのだ。いやもう総てを円うせずにはおかん、という神様の働きが、いっぺん壊して、新たに円い物を作ってくださろうとする働きなのだと、本当な事が分っても、ならこれから先雨があるかも知れん、風が有るかも知れんけれども、はあこれもやっぱり神様が円うして下さる働きだと分って辛抱する。この辛抱が徳を受けるんです、ね。
神様の働きが分る。叩かれれば痛い、つねられれば痛い、ね。けれどもそれが、神様がお陰を下さろう力を下さろう。いや、円満にせずにはおかんという働きだと、本当な事が分って辛抱するという事が、いうなら身に徳を受ける修行だと。
雨が降るから風が吹くから、いやこれからとても雨もあろう風もあろう。そこで一蓮托生だよという御理解でした。
私くしは一蓮托生という事は、例えば悪い事なら悪い事をする。するとそれがはれて数珠つなぎにこう、ね。引っ張られる時なんか一蓮托生と云ってような意味の事を申しますでしょう。一つの繋がり、託というのは、頼みという事である。託するという事ですね。
一人に分らせるのじゃあなくてあんたの家族だけではなくて、こちらの家族だけではなくてですね女の家族も男の家族も一蓮托生にしてここを分って呉れ、という神の願いが分られたらすばらしい事ですよという事なんです。と、一蓮托生という事になったらどういう事になるですか。
皆が御神意のままに動くとすると、よし風が吹いても、雨が降ってもです、ね。なら親先生はどうおっしゃるかと云う事で解決するんです。
私くしは夕べ遅うお祭が済んでもう下がっておりましたら、久富繁雄さんの所の田主丸に嫁に行っておる娘が月次祭に皆参って来ます。何か親子で何かこそこそ、次の部屋へ私しはこっちでテレビを見よった。
何かえらい長々お話が有っておって昨日は丁度お芝居が有っておりまして下がったら丁度よか所でした。それを私くしはもう見えてる事は分っとったけれどもまあ親子で話しよなさるから、もう芝居を見終わってしまうまでまあ何か一生懸命お話が有っておった。
それから、テレビを見終わってまいりましたら。先生大変な事が起こりましてという事であった、ね。それで結局繁雄さんが云われる事は、とにかく明日もういっぺんお参りしなおしてから親先生のおしゃるとおりにすればいいじゃないか。もうそれで話が決まるですからね、ね。
娘の嫁入り先の又向こうの親戚の問題なんです。兄弟の家の問題なんです。話を聞いて見ると、成程深刻なというか難儀な問題なんです、ね。
けれどもそういう問題でも、さあ明日からどうするこの問題に取り組むかと云う事を明日もういっぺんお参りさせてもろうて親先生によくお取次頂いてそしてから決めろ。これで話が決まる。
それで、その娘が云っておりました。もう本当に私くし共がいつでもどんな場合でも、ね。両親が信心しておってくれましたお陰でどんな問題が有っても合楽に持って行けばという安心が御座います。という事を本人もそういう事を云っておりました、ね。
いよいよの時には合楽に持って行ける。そして右か左か解決して、例えば家の中にごたごたした事がよしあっても、云うなら親先生はどうおっしゃる。私くしは貧爭病のない世界に住む。合楽ではこう云われますよね。貧乏のない世界、争いのない世界、ね。病気のない世界。
けれども貧に対しても、争いに対しても病気に対してもです、ね。合楽理念を持ってすれば、という所が私くしはすばらしいと思です、ね。
先日から、なら合楽でいう健康管理は、ね。合楽理念をもってする他ない、ね。家庭の不和は、合楽理念を持ってする他ない。難儀な云うなら金のまあ逼迫した状態に有る時は、ね。ここん所を合楽理念をもってどう頂くかという時にです。例えそれがその日暮しであっても絶対困らない、行き詰らない道が開けて来るという事なんです、ね。
どんなに例えば争いがあっても、合楽理念をもってするとです、ね。そこに争いというものはその場で消える程しの教えが、私くしは合楽理念だと思うんです。
親先生がそうおっしゃるならと、皆が赤と云うて居った者、白と云うて居った者、云うならば、赤もなければ白もないという生き方に成って行けるわけです、ね。
それが任せると云う事、しかもそれがね、昨日私がお取次させて頂いた昨日親子五人で参ってみえておられたその方、なら相手の家族が又、親子五人のなら五人の者がです、一蓮托生に一段と信心を高める事が出来、一段と信心の深い意味合いに、云うならば生長の家などではとても説き得られない所の深さに触れて行けると云う事。
今日を境に、この人達の運命が有難い方へ変って行くだろうと両親が喜ばれるような働きになって来るんです、ね。
ならこれからも又、雨がない風が無いじゃあないだろうけれども、その時はもう既に両家とも親先生を中心にという事になって来るんです、ね。そこに云うならば問題が無いのと同然の様な、貧乏が無いのと同然のような、病気がないのと同然の様な働きが受けられる事の出来れる。云うなら、合楽理念というものがいよいよ有難い事に成って来るわけであります、ね。
本当な事が分っての云うなら辛抱でなからなければならない、又は、親様がああ仰せられてだからという辛抱じゃあなからにゃあならん。それは、途中泣き泣きかも知れません。泣き泣き辛抱しておりましたらね、だんだん信心が身についてくる。
三代金光様の場合は、もう思う事もなくなり欲しいものもなくなったとおっしゃる。云うなら、自由無碍の世界がそこに開けてくる訳。そして有難うて有難うてというような云うならお徳が受けられるという事になるんです。
それに云うならば神様を拝むというてもね、大声を上げたり節をつけたりせんでも、ね。それがもしお陰を頂きたいばっかりでそれであるとするならば、それは云うなら神様をこうごうぐりよるごたる。おだてよるような感じ。
そげな事に神様は乗っちゃ来なさらん、ね。真がなければ神には嘘を云うも同然じゃとおっしゃる。そう云う意味で私くしは今日は改めて、大祓信行というものが、いかに神様に通うか通じるかという事を改めて神様が生き生きとして、有難い働きを現わし良い様な云うなら働きが、大祓信行だと思うです。
無条件ですから、ね。これを貰わんならんからじゃないですから。ただお道の信奉者としてはもう当然の事をして神様に御神飯を奉るような気持ちで大祓信行を欠かす事なしにお陰を頂いてまいりましたら、それが真でなくて何であろうかという事になります。
無条件でいうならば与える、これが真なんです、ね。大祓ば十巻あげたからこういうおかげ頂かんならんというようなものじゃないわけ。そういう意味合いで改めて大祓信行の徹底、同時に辛抱というてもただ歯を食いしばったというようなものではなくてですね、本当いやあ有難い辛抱が、もっといいでしょうけれども、親様がおおせられてあるから泣く泣くでも辛抱したと云う、親様の思いというものが一貫しておる。貫いておる、ね。
それを三代金光様の例をもって聞いて頂いたんです。また、今のその家庭争議の問題でもですね本当な事が分る。
神様の働きと云うものは、円うせずにはおかんという働きが、こうまあ支離滅裂のような形に見えるけれども、そして人間心使うならこりゃあもうやりもされん行きもされん、というふうに親も家族も思うておる矢先に、ね。合楽の話を聞かれた。なら、合楽でいっぺんおうかがいさして頂こうとお母さんがその問題で、おうかがい屋ちいうかね、あのお尋ね所と云うのがありますですよね。
そこえ行かれたら、もうこの縁談な早よ引き取んなさったがよかばのち云わしゃた。だからお母さんはその腹になってしもうちゃった。けれども昨日の話を聞いて、神様がより良いお陰を下さろうとする働き、神様がいよいよ円うしょうという働きであることが、まあやっぱ生長の家の話なんかを読んどられますから、よく分るわけなんです。
そういう働き、それを神様の働きを真っ向から受けてね、こうと話が決まりゃあ一日も早う円満な働きになって来にゃあいけないという事で帰られました、ですね。
ですから本当な事が分って辛抱するという事。又は、親様のおおせ、神様のおおせ、親先生がああ云うてだからと泣く泣くでも辛抱していく。そう云う辛抱にお徳が受けられるんだという事を今日は聞いて頂きましたね。
どうぞ